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ノブ・ハヤシ、大谷貴子/白血病患者支援
「ママになる喜びを患者に」#4

元K-1ファイターで現役格闘家のノブ・ハヤシ(42)。かつて闘病のベッドから「日本にも骨髄バンクを」と叫び、実現への原動力となった大谷貴子(59)=全国骨髄バンク推進連絡協議会顧問。「どりサポ」でもおなじみの両者はともに骨髄移植で白血病を克服し、今はそれぞれの道で白血病患者を助けている。互いに尊敬しあう間柄だが、違いもある。ノブはわが子を抱く幸せを知り、大谷は知らない――。そんな2人が今度は同じ舞台に立ち、若い女性患者の妊娠支援に向かう決心をした。

(全16回連載)

「驚愕の事実」

「うそでしょ。うそに決まっている。私が妊娠できる体ではないなんて。もう結婚もできないし、わが子を抱くことも永遠にない。こんな残酷なことってある? 生きていく意味ってある?」

1986年暮れに名古屋大学病院で母・巻枝の骨髄を移植され、白血病から生還した大谷貴子がわが身にかかわる「驚愕の事実」を知ったのは、移植から3年後、28歳のとき。まだ独身だった。

移植後、いつまでも生理が来ないのを不審に思い、産婦人科で検査してもらった結果、妊娠能力の喪失を告げられた。移植前に投与された抗がん剤が生殖細胞を破壊していたからだった。

「2度目の死」

子どもができない身体でも結婚はできるし、幸せになる道はある。しかし、大谷にとっての人生の価値は「結婚して家庭をつくり、赤ちゃんを抱くこと」以外の何物でもなかった。

病魔から生還した大谷はてっきりその夢も手中に取り戻したものと思っていたが、まったくの勘違いだった。白血病発症に続く2度目の死の宣告に等しかった。

毎晩泣きはらした。ライフワークの「名古屋骨髄献血希望者を募る会」は89年10月、「東海骨髄バンク」と看板を改め、シンポジウムも開催するなど世に広く存在を知らしめていたが、中心人物の大谷は一切を投げ出したくなった。

骨髄バンクの早期実現を求める集会で講演する大谷貴子さん
骨髄バンクの早期実現を求める集会で講演する大谷貴子さん

「ひどすぎる」

絶望は怒りになって喉元に込み上げてきた。矛先はもっぱら、骨髄移植した時の主治医で、ともに会を運営してきた北折健次郎に向けられた。

「移植で子どもが産めない体になるなんて、もう生きていく意味がありません。だって私には人生の幸せ、そのものですから。それに私は自分が受ける治療とその後の自分の体のすべてを事前に知りたかったのに、先生からは一切聞かされていませんでした。ひどすぎます」。大谷は北折に会うたびに抗議した。

北折はいつも黙って聞くだけで、ほとんど釈明はしなかった。もちろん患者の叫びなので謙虚に受け止めたが、一方で「技術も時間も無い中でそんな要求をされても、現実にはどれも無理に近かった」とも思っていた。

患者支援の協力者には女優の東ちづるさんも
患者支援の協力者には女優の東ちづるさんも

「移植で精いっぱい」

大谷の場合、名大病院に入院した時は白血病の急性化で生死の分かれ目に立たされていた。生殖能力(妊孕性)の温存どころか、無事に移植の日を迎えさせるだけで精いっぱいだった。

加えてこのころはまだ、人間の卵子(未受精卵)の保存はほぼ未知の技術。病気に関する告知も「インフォームドコンセント」といった概念が普及した現在とは違い、不妊どころか、患者本人にはがんや白血病であることすら一切知らせない時代だった。

大谷が求めた妊孕性温存や事前の不妊の説明は、北折が言うように時代的にも状況的にも不可能に近かったのだ。

持ち前の行動力、好奇心、挑戦意欲で南極にも(1997年)
持ち前の行動力、好奇心、挑戦意欲で南極にも(1997年)

「できるのは医師だけ」

もちろん、今は大谷もその点を理解していて、「恩人に向かって、それは長い間しつこく絡みました。申し訳なかったと思っています」と詫びるが、「でも、患者の病気を診るだけでなく、『助けた後の患者の人生にも思いを巡らせてほしい。それができるのは医師だけなのだから』という願いもぜひ分かってほしくて、ああいう態度になったのです」と話す。

しかし、北折は大谷の訴えを深く心に刻んでいた。北折は「助けた後の患者の人生、か。俺はそこまで考えていただろうか。もっと患者の妊孕性温存について学ぼう」と決めた。

この2人が10年後、卵子保存という光明を患者のもとに手繰り寄せるとは、本人たちはまだ知る由もなかった。

敬称略

(全16回連載)

#5に続く

最初から読む(#1)

取材協力:

全国骨髄バンク推進連絡協議会 https://www.marrow.or.jp/

ドージョーチャクリキ日本 http://www.chakuriki.jp/