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大橋一三/骨髄ドナー #9
「駅伝ができること」

骨髄バンク支援のチラシを配るボランティア

正月恒例の箱根駅伝。寒風にたなびく出場大学ののぼり旗はすっかりおなじみの光景だが、その中に「いのちのタスキリレー」という一風変わったのぼりが混じっているのをご存じだろうか。白血病患者救済に努める「日本骨髄バンク」をPRするのぼりだ。2度の骨髄提供経験のある元大学陸上部員が18年前、「テレビ中継を見る患者に『いつもあなたを応援しています』というメッセージを送ろう」との一心で始めた。熱意は駅伝主催団体や企業のトップらにも伝わり、のぼりを持つ仲間を増やしていった。

(全20回連載)

「今度こそ考えを」

「来年の大会では、ぜひ中継所の近くに私たちののぼりを立てさせてください」

2002年の箱根駅伝で、骨髄バンクのPRと白血病患者激励のためののぼりを立てた大橋一三はその年の2月24日、駅伝を主催する関東学生陸上競技連盟(関東学連)に足を運び、こう願い出た。

箱根宮ノ下でマイクを持つ大橋さん
箱根宮ノ下でマイクを持つ大橋さん

訪問は前年の2001年秋に続いて2回目。1回目は門前払いをされたが、「今度こそ俺の考えを分かってもらう」と、捲土重来を期しての再訪だった。

「建前に違いない」

関東学連は加盟校の集合組織で、学生が運営の主体だが、箱根駅伝のような巨大イベントを抱えるだけに、幹部には陸上競技に功績のある社会人が名を連ねる。

大橋を迎えたのは、当時、関東学連会長だった廣瀬豊(故人)。愛知県出身で、高校時代は三段跳びで国体に出場し、法政大学時代は関東学連の幹事を務めた。

故・廣瀬豊さん
故・廣瀬豊さん

卒業後は1967(昭和42)年に「月刊陸上競技」を創刊するなど、主に出版界にあって陸上競技の発展に寄与した。関東学連では2001年から会長職にあった。

廣瀬は、緊張しながら頭を下げる大橋にすげなかった。「だめですね。あなた方にOKを出しちゃうと、次の年から『うちも、うちも』と、いろんな団体が来ちゃうからね」と拒絶した。

大橋はひるまなかった。廣瀬の言葉の端から「この人は職務上、とりあえず建前を言っただけに違いない。心の中では『学生にとって悪くない話だ』と考えてくれたはずだ」と感じ取った。「それに、どこか優しい眼をしている」とも思った。

「やってみるか」

大橋はその廣瀬の眼をとらえ、改めて「私どもの申し出を断ってもらっても構いません。きっぱり諦めます。でも世の中には困っている人がたくさんいます。来年に向け、駅伝はそういう人たちのために何ができるか、何をすべきか、学生自身に考えさせてほしい。彼らが選んだものが骨髄バンク支援でなくてもいい。大事なのは学生の主体性だと思います。それだけはお願いします」と訴え、返答を待った。

骨髄バンク支援のチラシを配るボランティア
骨髄バンク支援のチラシを配るボランティア

食い下がられた廣瀬はソファーの背もたれに上体を預け、腕組みして「うーん」とうなったきり、しばらく天井を見つめていた。そしておもむろに「やってみるか」とひと言つぶやいた。

大橋は「本当ですか。ありがとうございます。こんなにうれしいことはありません」と、廣瀬に抱き着かんばかりに喜んだ。

実は廣瀬は最初の言葉とは裏腹に、もともと「学生スポーツと社会貢献」に前向きだった。このときの関東学連副会長で、廣瀬の片腕として学生陸上をけん引した青葉昌幸(77)(のち関東学連会長。現名誉会長)は「廣瀬さんはかねがね『弱い立場の人たちを助けるのがスポーツマンというものだ』と周囲に持論を話されていました。誰もが同感していました。そこに、のぼりの話がもたらされたわけです。よく覚えています」と振り返る。

「死病を知る心」

廣瀬自身も難病の経験者だったことも見逃せない。1950(昭和25)年に大学進学後、当時、日本人の死因の第1位だった肺結核を患い、青春をかけるはずの陸上競技生活を断念していた。

青葉は証言する。「廣瀬さん自身が死の病と闘う辛さや心細さを知っていた。だから、『白血病患者を励ましたい』という青年の訴えが彼の心に響いたのは間違いないでしょう」

廣瀬は大橋との面談後、さっそく青葉に「箱根駅伝が白血病患者支援ののぼり運動に協力することについて、副会長はどう思われますか」と意見を求めた。青葉は「廣瀬会長。いい試みじゃないですか。やりましょう」と即答した。

意を強くした廣瀬は関東学連の正式会議でこの一件を議題に乗せた。既に廣瀬のスポーツマン哲学が浸透していたこともあり、学生を含め異論はひと言も出なかった。

こうしてのぼりは関東学連も認める社会貢献活動と位置付けられ、中継所近くに立てることが可能になった。

実現を後押し

関東学連の「協力」に真っ先に賛同した青葉は1967(昭和42)年、大東文化大学陸上競技部監督に就任して以降、2回にわたる箱根駅伝連覇(1975、76、90、91)など同部の輝かしい戦歴を築き、多くの名選手を育てた。

大橋が母校・国士舘大陸上部時代も大東文化大の強さはとどろき、国士舘は箱根ではいつも後塵を拝していた。大橋に苦杯をなめさせたライバル校の統率者が時を経て、同じ箱根を舞台にした大橋の念願を実現へと後押ししたわけである。

出場校ののぼりに並んで立つバンクののぼり。バンクののぼりを手にしてくれる学生も大勢いた。
出場校ののぼりに並んで立つバンクののぼり。バンクののぼりを手にしてくれる学生も大勢いた。

「大成果だ」

大橋らボランティアが関東学連の「協力」で得たものは、のぼりの場所だけではなかった。

廣瀬豊さんとの出会いを思い起こす大橋さん
廣瀬豊さんとの出会いを思い起こす大橋さん

「2003年の往路スタートで、中継のアナウンサーが『この大会は骨髄バンクの普及啓発に協力しています』とコメントしたのです。事前に聞かされていなかったので、もうびっくり。みんなと『大成果だ』って喜びあいました。ボランティアにいっそう張り合いが生まれました。これも廣瀬さんの英断のおかげです」。今も大橋の感謝は尽きない。

2003年の駅伝は出場校数を前年までの15校から20校(関東学連選抜を含む)に増やすなど、規模と人気を飛躍させた大会でもあった。廣瀬はそんな画期を築いた立役者だったが、3年後の2006年7月、惜しまれながら74歳で帰らぬ人となった。

さて、大橋が廣瀬のもとに乗り込んだほんの2日後、今度は大橋の知らないところで、のぼり運動を意外な方向へと広げる芽が生まれようとしていた。

敬称略

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